薩摩義士





銅像のある場所  岐阜県海津郡海津町 治水神社

 宝暦4年(1754)、幕府は西国の雄、島津薩摩藩に木曽川、長良川、揖斐川のいわゆる木曾三川の堤防普請工事を命じました。いわゆる「宝暦治水」です。

 家老、平田靱負を総奉行に1000人におよぶ薩摩藩士はこの濃尾の地で堤防工事を行いました。
 工事は苛烈を極め、また、監督の幕府役人の嫌がらせなどがあり、抗議と絶望のため切腹してはてた薩摩藩士も数多くいました。
 工事までに、切腹52名、病死32名。工事費用50万両。

宝暦5年の工事終了後、総奉行平田靱負はあまりの犠牲者の多さと、費用が掛かり過ぎたことの責任を負って自害しました。

 これら、多くの薩摩藩士の尊い犠牲により木曾三川は整備され、かれらを「薩摩義士」として称えました。



宝暦治水の遺蹟
● 千本松原
治水神社から南に続く千本松原。
薩摩藩士が堤防を築いた後に、補強のため日向松を植えました。
それが、今日巨木となり、今も堤防を守っています。

雨の日の揖斐川

千本松原からの眺めですが、川幅も広いですし、確かにすごいですね。

治水神社

宝暦治水の偉業を称え、犠牲者を祀った神社です。

● 宝暦治水時の地図
木曾川、長良川、揖斐川の3つの川が複雑に流れていることがわかります。
確かにこれでは洪水は絶えない。

海蔵寺(桑名市)
薩摩義士27人が埋葬された寺で、現在24基の墓が残っています。
総奉行、平田靱負の墓もここにあります。
当時、関わりを恐れて引き取り手の無かった薩摩義士の遺骸を、見るに見かねて、海蔵寺さんが引き取ったとのことです。

薩摩義士の墓(海蔵寺)
中央の石塔が、総奉行平田靱負の墓。
その周囲に薩摩義士の墓があります。
このお寺に葬られた人はすべて切腹して果てた人々です。
切腹による憤死は、工事を管理する幕府役人に怒りを向けたものがほとんどでした。これを、幕府への反抗と受け取られることを恐れ、薩摩藩側では死因を隠したと言われています。

薩摩義士役館跡(養老町大牧)
大牧の庄屋、鬼頭兵内宅が治水工事の本陣となり、この難工事の現場事務所となりました。
また、工事終了後、すべての責任をとった平田靱負が切腹したのもここでした。

現在、役館跡には平田靱負の銅像が建っています。




宝暦治水については、「風雲児たち 外伝宝暦治水伝」(みなもと太郎 著)に詳しく書かれています。

現在、「風雲児たち」は潮出版社とリイド社から出版されています。

(写真は潮版「風雲児たち」)



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