西郷 頼母 (1830〜1905)





銅像のある場所 福島県会津若松市 会津武家屋敷

 西郷頼母(さいごう たのも)。会津藩家老。

 時勢を見抜く目をもった人物といわれ、特に、藩主松平容保の京都守護職就任に強硬に反対しました。
 「この時勢に京都守護職など薪を背負って火に飛びこむようなもの」と極言して諌めましたが、徳川宗家を大事と考える容保に容れられませんでした。

 やがて、会津藩は新政府軍の征討の標的となりますが、頼母は恭順論を唱えますが容れられませんでした。
 
 戊辰戦争では、頼母は会津藩白河口総督として出陣。白河城での攻防1ヶ月。死闘を演じましたがついに白河城は官軍の手に落ちました。

 会津落城後は仙台より榎本軍に投じ函館戦争に参加。のち、日光東照宮宮司となった旧主容保のもとで禰宜として仕えたのち会津に戻り、裏長屋で余生を送りました。


● 西郷一族の悲劇
会津城下が新政府軍の乱入を許した慶応4年8月23日、様々な悲劇が起こりました。
 世に有名な白虎隊の悲劇もこの日のことでしたが、城下の武家の子女にも同様のことが起きました。
 中でも、西郷頼母一族は城からの総篭り(篭城命令)に対し、女子供が入城すれば篭城戦の足手惑いになるとして入城を拒み自刃を遂げました。
 頼母の母(58歳)、妻(34歳)、妹2人(26歳と23歳)、5人の娘の9人の他一族親類の家族12人の総勢21人の集団自決でした。
 この西郷一族の自刃は会津戦争の悲劇として現在も語り伝えられています。


左は鶴ヶ城北追手門跡前に立つ西郷邸跡の碑と、右は会津武家屋敷に復元された西郷頼母邸。



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