真田 幸隆 (1513〜1574)

   真田 昌幸 (1547〜1612)


長野県小県郡真田町 長谷寺

 3基あるお墓の内、真ん中のお墓が真田幸隆。その左側の小さいお墓は幸隆夫人。右側のお墓は昌幸の墓です。

 真田幸隆は武田信玄に仕え信玄の信州攻略の先鋒を務めました。特に謀略、調略が得意で、信玄が落すことができず却って手痛い反撃をくらった戸石城を調略によって見事落としています。
 調略、謀略に長けていたということは、当然、情報の収集とその操作にも巧であったはずで、恐らく多くの忍者を使っていたはずです。
 真田=忍者=真田十勇士というイメージの構図は真田幸村の登場以前の幸隆時代に形成されたと考えていいと思います。

 真田昌幸は幸隆の3男。幼少より信玄の側近くに仕え、信玄の命により甲斐の名族、武藤氏を継いで武藤喜兵衛と名乗りました。
 しかし、真田本家を継いだ、長男信綱が次男昌輝とともに長篠の合戦で戦死すると真田家にもどって家督を継ぎました。

 武田家滅亡後は、織田、北条、上杉、徳川と主家を転々とし、最後は豊臣秀吉に仕え徳川の大軍を上田城で迎え撃ち見事破りました。
 関ケ原の合戦では豊臣方につき、中仙道を上る徳川秀忠3万の大軍をわずか3千で迎え撃ち、秀忠軍を足止めさせました。
 しかし、関ケ原の合戦で石田三成が敗れたため昌幸も領地を召し上げられ次男幸村とともに紀州九度山に流されました。
 昌幸の智勇を恐れた家康は終生昌幸を許さず、昌幸はむなしく蟄居先の九度山で生涯を終えました。

幸隆法名  笑傲院殿月峯良心大庵主
昌幸法名  長谷院殿一翁于雪大居士



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