高坂 昌信 (1527〜1578)


長野県 長野市松代町明徳寺

 高坂弾正忠昌信は武田信玄に仕え俗に言う「武田24将」に数えられるほどの人物です。
 もともとは、甲州石和の百姓で春日源助といい、信玄に仕えてからは信玄の寵愛を受けました。
 しかし、才覚のあった人物なので、武田家の有力な武将となり信州の名族の名前をついで香坂と名乗ります。
 甲陽軍鑑では「保科弾正槍弾正、高坂弾正逃げ弾正」と言われたといわれていますが、この場合の逃げとは無理な戦をさける慎重な性格をあらわしたものだと言われています。
 信州川中島に海津城が造られると高坂昌信は城将を命じられました。この城は上杉との最前線の城なのでこの慎重な性格を見込まれたのかもしれません。

 武田勝頼が長篠の戦いで大敗を喫すると昌信は伊奈まで出迎え、旗など整えて見苦しくない支度をさせて甲府へ送ったといわれています。
 
 昌信は民政に優れ、また「甲陽軍鑑」の著者とも言われています。(実際は高名な高坂弾正の名を使った甲州流兵法の祖、小幡景憲の作と思われます)

 確実な資料によれば彼の名前は香坂弾正忠、または春日姓にもどって春日弾正忠虎綱と名乗ったようで、広く知られている高坂弾正忠昌信の名は確実な史料では見つからないようです。



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